なぜ「選ぶだけ」でこんなに疲れる? 優柔不断な私が気づいたこと

身近な疑問

私は、けっこう優柔不断です。

何かを決めようとすると、考え始める。

こっちにも良いところがある。
でも、あっちにも捨てがたいところがある。

選択肢が10個あるから迷うのかと思えば、2択になっても迷います。

結局、迷うのです。

でも最近、「どうして選ぶだけで、こんなに疲れるのだろう」と考えていて、一つ気づいたことがあります。

私にとって選ぶという行為は、単にAかBかを決めることではありませんでした。

一つを選ぶということは、もう一つの未来を手放すこと。

どこかで、そんなふうに感じていたのだと思います。

選ばなかった未来まで考えてしまう

たとえば、進学先を決めるとき。

仕事を選ぶとき。

こうした選択には、その後の人生が枝分かれしていくような感覚があります。

Aの学校へ行けば、そこで出会う人がいる。

Bの学校へ行けば、まったく違う経験をするかもしれない。

この会社に入った人生。

別の会社に入った人生。

今の仕事を続ける人生。

思い切って違う道へ進む人生。

実際に生きられるのは一つなのに、選ぶ前だけは、いくつもの未来が目の前にあります。

だから迷う。

選ばなかったほうの未来まで想像してしまうのです。

そして、どちらかを選んだ瞬間、もう一方の未来は消えてしまうような気がする。

これが、私にとって選択が重たくなる理由の一つなのだと思います。

選択肢が多いことは、本当に幸せなのだろうか

昔に比べると、私たちはずいぶん多くのものを選べるようになったのではないでしょうか。

もちろん昔にもさまざまな生き方はあったと思います。

ただ、家業を継ぐ。
親と同じような仕事に就く。
生まれ育った場所で暮らす。

今よりも、人生の道筋がある程度決まっていた人は多かったのではないかと思います。

今は違います。

進学先も選べる。

仕事も選べる。

働き方も選べる。

住む場所も選べる。

インターネットを開けば、知らなかった生き方まで次々と目に入ってきます。

「こんな人生もある」

「あんな働き方もある」

「もっと自分に合った場所があるかもしれない」

自由が増えました。

でも同時に、選ばなかった人生まで見えるようになったとも言えます。

選択肢がないことは苦しい。

でも、選択肢が多すぎることにも、また別の苦しさがあります。

私が怖かったのは「間違えること」だけではなかった

なぜそんなに迷うのか。

以前の私は、「正しい選択をしたいからだ」と考えていました。

でも、もう少し自分の気持ちを見てみると、少し違いました。

たぶん私は、

自分で選んで、その結果を自分で引き受けることに自信がなかった。

のだと思います。

誰かが決めてくれれば、

「仕方なかった」

と言えるかもしれません。

でも自分で選べば、その結果も自分のものです。

思ったようにいかなかったとき、

「あのとき別の道を選んでいたら」

という考えが頭をよぎる。

今でも一瞬、よぎることはあります。

でも、私はなるべくそこで止めるようにしています。

だって、考えても分からないからです。

選ばなかった人生を実際に生きることはできません。

「あっちなら幸せだったかもしれない」

と考え続けても、その答えは永遠に出ません。

それなら、そこに自分のエネルギーを使うのはもったいない。

私はそんなふうに考えるようになりました。

「腹を決める」とは、自信満々になることではない

では、迷った末に決めるとは、どういうことなのか。

私にとって「腹を決める」とは、

この選択が絶対に正しいと確信することではありません。

他の道をいったん考えるのをやめて、

「私はこの道を進む」

と決め、一歩を踏み出すことです。

その先が平坦な道なのかは分からない。

もしかすると、いばらの道かもしれません。

それでも、とりあえず一歩進む。

選ぶということは、未来を完全に予測してから進むことではなく、

分からない部分を残したまま歩き始めること

なのかもしれません。

私には「締め切り」が意外と大事だった

迷いやすい私にとって、意外に大切なのが締め切りです。

時間がいくらでもあると、いくらでも考えられます。

もっと調べられる。

もっと比較できる。

別の可能性も探せる。

ところが締め切りが近づくと、そうはいきません。

寄り道できなくなります。

「そろそろ決めなければならない」

という制約が生まれる。

すると不思議なことに、それまでまとまらなかった考えが突然まとまったり、

「もう、これで行こう」

と答えが降りてきたりすることがあります。

自由が減ったのに、逆に頭が動き始める。

これは仕事をしていても何度も感じてきました。

もしかすると人間は、自由が無限にあると考えにくく、ある程度の枠ができたほうが力を発揮できることもあるのかもしれません。

あえて「縛りプレイ」を楽しんでみる

だから最近は、自分から制約をつくるのも悪くないと思っています。

ゲームでいう「縛りプレイ」のようなものです。

何でもできる状態ではなく、

「今回はこの条件でやる」

「ここまでに決める」

「この予算の中で選ぶ」

「今日はこのテーマだけで考える」

と、自分でルールを決めてみる。

一見、不自由になったように思えます。

でも、その枠の中でどうするかを考え始めると、逆に発想が広がることがあります。

制約を嫌うのではなく、

自分で決めた制約そのものを楽しんでしまう。

そう考えると、選択に対する重苦しさも少し変わります。

でも、迷うこと自体は悪くない

ここまで書くと、「迷わないためにどうするか」という話に見えるかもしれません。

でも私は、迷うことそのものをなくしたいとは思っていません。

むしろ最近は、

迷えるということ自体が、豊かなことなのではないか

と思っています。

どちらに進もうか迷える。

仕事を選べる。

学校を選べる。

何を買うか選べる。

どんな暮らしをしたいか考えられる。

それは、そこに複数の可能性があるということです。

迷うのは苦しい。

でも、

迷えるということは、自由があるということでもある。

そう考えると、優柔不断な時間も少し違って見えてきます。

急いで消さなければならない欠点ではなく、自分の未来について考えられる時間でもある。

迷うだけ迷ったら、それでいい。

ただし、いつかは締め切りを決める。

そして決めたら、一歩進む。

私はそのくらいでちょうどいいと思っています。

私は「選んだ道はすべて正しい」という世界で生きることにした

そして私は、一つ、自分の中で勝手に決めているルールがあります。

それが、

「自分が選んだ道は、すべて正しかった」

というものです。

もちろん、人生で一度も失敗しないという意味ではありません。

選択した結果、

「これは失敗だったな」

と思うこともあります。

遠回りしたこともあります。

思ったようにならなかったこともあります。

それでも私は、

最終的には、この道も正解につながっていく

という世界設定にしています。

なぜなら、人生の途中では「失敗」に見えていた出来事が、何年か後になって別の意味を持つことがあるからです。

あの失敗があったから知ったこと。

あの遠回りがあったから出会えた人。

あの選択をしたから、今ここにいる。

だったら、選んだ瞬間だけを切り取って、

「正解だった」

「間違いだった」

と決めなくてもいい。

私はそう考えています。

世界のルールくらい、自分で決めてもいい

「選んだ道はすべて正しい」

これは客観的な事実ではありません。

私が勝手に決めた世界のルールです。

でも、私はそれでいいと思っています。

人生で起きる出来事すべてを、自分の思い通りにすることはできません。

でも、

起きた出来事をどんな物語の中に置くかは、自分で決められる。

失敗したときに、

「やっぱり私は選択を間違えた」

という世界で生きることもできる。

一方で、

「さて、この失敗はどこで正解につながるんだろう」

という世界で生きることもできる。

私は後者のほうが楽しい。

気持ちも少し楽になります。

そして、一度の失敗で立ち止まらずに済むぶん、結果的に良い方向へ進みやすい気もしています。

正解を当てなくても、人生は進んでいく

昔の私は、選択するたびに「正解」を探していたのかもしれません。

でも未来のことは、誰にも分かりません。

どれだけ考えても、

選ばなかった道の答え合わせはできません。

だったら、

迷えるうちは、迷えばいい。

それは自由がある証拠だから。

でも、いつまでも迷い続けるのが苦しくなったら、自分で締め切りをつくる。

少しだけ制約をつくって、その縛りさえ楽しんでみる。

そして決めたら、いったん他の道を手放して一歩進む。

たとえ途中で転んでも、その時点で「間違いだった」と決めなくていい。

私は、

「選んだ道は、すべて正しかった」

という世界で生きることにしています。

正解を選べたから進めるのではなく、

選んだ道を歩き続けることで、いつか正解にしていく。

選択とは、案外そういうものなのかもしれません。

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